この記事は、2024年1月3日に公開しましたが、執筆は2000年頃で、何度かネット上に上げています。なので、私の小説の試し読みとして公開します。ご自由にお読みください。ただし、転載は禁じます。

あらすじ

 

栄えて栄転となった加賀秀樹は、直前になってトラウマがフラッシュバックする。それは天使の置物の仕業だった。母を失い、父を失い、ただ仕事に没頭する日々・・・対価は地位。それは秀樹の望む未来だった。しかし、相澤由美の登場で人生観は一転する。二人の未来は・・・!?ページ途中でお気に入り登録するとしおり代わりになります。どうか、ちまちまでも良いので味わってください

 

本編

 

白く小さい箱に、満身に傷を負った真っ白な天使が安置されていた。

 

 それは窓から差し込む光を受け、まばゆいばかりの光を発していた。部屋には埃が充満し、光の筋はスモッグのように渦を巻くほこりを映し出していたが、それでもなおそれは美しさを失ってはいなかった。むしろそれが神秘性を引き出しているかのように見えた。

 

 翼は片方が綺麗に取れている。もしかしたら最初から持っていないのかもしれない。片翼の天使。そう考えると、神秘性はさらに増した。

 

 両腕は、パントマイムのように右にある壁か何かに寄り添うように差し出されていた。右腕は小さく折りたたみ、手をやや右後ろに添え、左腕は肘を曲げて右前に手を添えている。

 

 両足は、立ちひざで左側に足を投げ出してひざまずいているようだ。

 

 この天使は左側をつかさどるつがいの天使なのかもしれない。右側をつかさどる天使がいれば、外側の手をお互いの体の中央に差し出し、内側の手を合わせた瞬間に両手が固く結ばれそうだった。

 

 しかしそのつがいの天使は引き裂かれ、無残な姿になっていた。

 

 もう片方の翼は複雑骨折を思わせる。羽の向きがいびつで、毟り取られたように荒れ果てていた。骨折した鳥の翼のほうがよほど美しく見えた。

 

 体も同様にいたるところに傷があり、顔の判別すらつかなかった。無数に走るヒビは全身をくまなく巡り、かろうじて元の形を形成できる以前は首も体も、腕すらも原形をとどめるにいたっていなかったかもしれない。

 

 加賀秀樹はしばらくその儚げな片翼の天使に心を奪われていたが、衝突に柱時計から流れた昼の時報で我に返った。

 

「こんなもの、買った覚えないぞ」

 

 引越し作業中の高級マンションの一室で一人ごちると、完全に意識がもとの世界に戻った。

 

 その天使の置物は、壊れて接着剤で着けた跡があることを見ると、相当大事なものに違いない。だが、一体どこで手に入れたのか、何故それが箱に入っているのかも分からなかった。

 

 秀樹の父は医療機器メーカーの社長だった。しかし、彼が十四の時に亡くなり、大学を卒業してすぐに社長の座につき、しばらく役員の指示を受けて経営してきた。しかし、バブルの影響で経営が悪化。このまま倒産を待つわけにはいかず、アメリカに本社を置く会社に吸収合併され、日本支社の社長として勤めることになった。

 

 そしてついに四十二という若さでニューヨーク本社の役員に栄転となることが決まり、先日の引継ぎを最後に日本支社を後にした。

 

 秀樹は置物を箱に戻し、机の上に置いた。

 

 これは父のものだろうか。父は見栄の為だけに秀樹をミッションスクールに通わせていた。キリスチャンではなかったが、もらい物かもしれない。亡くなったのが秀樹が十四の時だからもう二十八年も経ったことになる。

 

 秀樹の父の死の間接的な原因は母の浮気だろう。母は十歳の寒い冬に浮気がばれて家を追い出された。

 

「行かないで。三人でもう一度やり直そうよ」

 

 秀樹は泣いてせがんだ。母のコートを掴み、必死にすがろうとした。

 

 そんな秀樹を父は力ずくで引き離した。なんてひどいことをするんだと秀樹は思ったが、父には逆らうことが出来なかった。

 

「ごめんね、秀ちゃん。しっかり事業を継げるように頑張って勉強するのよ」

 

「勉強したら、帰ってきてくれるの?」

 

 母は目に涙をためて秀樹を抱きしめた。

 

「ごめんね。でも、お父さんは幸せになるわ。私の代わりにお父さんを幸せにしてあげて」

 

 そう言い残して母は男の元に去っていった。

 

 その後、男手一つではたいへんだから子育て慣れしている中年の家政婦が一人住み込みで世話と家事をしてくれていた。

 

 だが、それ以来父は荒れていた。次第に経営が悪化していたと知ったのは、引継ぎをしてからだった。秀樹が一四歳の秋に父は自棄酒がたたり、肝臓を傷めて担ぎ込まれた。

 

 急な知らせを受けて病院に駆けつけた時に見た父は秀樹の知ってる父ではなかった。威厳に満ちたライオンの目は弱々しく哀愁に満ち、ベットにうずもれるように横たわっていた。

 

 狩る側から狩られる側に変わっていた。

 

「父さん……」

 

 声をかけると、父はゆっくりと顔を向け、わずかに微笑んだ。 

 

 日が差し込んだ真っ白な部屋で父と二人きりで向き合って、礼拝堂で祈りをささげるようにひざまずいて手を握った。

 

「父さん、しっかりしてくれよ。早く良くなってくれよ。酒なんかもう二度と飲むなよ」

 

 父は苦笑したが、それは諦めのような哀愁に満ちた表情だった。

 

「秀樹、お前は戦略結婚にしろよ。恋愛をするのは自由だが、結婚はダメだ」

 

 衝突にそんなことを言われ、秀樹は目を丸くして言った。

 

「母さんと同じようなことをするから、か? 夫婦の絆って、そんなものなのかよ。運が悪かっただけだろう」

 

「それは違う。恋愛なんて脆いものだ。愛情と憎しみはカードみたいなものでな、まったく違う感情だが、ほんの弾みでひっくり返ってしまう。」

 

「意味が分からないよ。何で愛情と憎しみが同じなんだよ」

 

「恋でなくても、相手を愛するということは大切に思うことだ。裏切られたら憎しみに変わる。憎んでいるということは、相手を意識している。仲間になりたいと思う弱い愛情なんだ」

 

 でも、と秀樹は抗議した。例えそうでも、それじゃあまりにも淋しいじゃないか。

 

「秀樹、恋というのは一般的に男と女の間に発生するものだ。逆にいうと、組み合わせ等すぐに変わる。しかし、互いに敬愛し、互いの利害に基づく関係であれば世間体や家族や法律等、様々なしがらみによって保証される」

 

「そんな保証に何の意味があるんだよ」

 

 父は秀樹の不安げな手から逃れ、我が子の両肩を、弱った手でしかし力強く手を置いた

 

「お前のような子供がいなくなる。愛情は時を経て薄らいでいく。恋心はすぐに醒めても純粋に慈しむ心は決して消えうせることはない。個は個である以上決して相容れないものだ。一定以上はな。恋はそれを良しとはしない。そこにひずみが生じる」

 

「分からないよ。さっぱり分からない」

 

 父は視線を落とし、唇を固く結んだ。

 

「今はそれでいい。だが、恋愛結婚だけはしてくれるな。そうでないと俺が浮かばれない」

 

「なに言ってるんだよ、そんなこと言わないでくれよ」

 

「俺がいなくてもしっかり勉強しろよ」

 

「分かったよ。勉強するから、ずっと学年トップになれるようにするから。恋愛結婚もしないから死なないでくれよ」

 

 父は確かにうなずいた。だが、約束は守ってくれなかった。

 

 この時のしっかり勉強しろという言葉を支えにここまでやってきた。そうしなければ安心してくれないから、永遠の安らぎを妨げることになるから、歯を食いしばって仕事一筋で生きてきた。結婚もしなかった。女と付き合う時間だけ無駄で、足手まといとすら思えた。

 

 家政婦には秀樹が高校に入学した時を機に辞めてもらった。いきなり会社を継ぐことなど不可能なので、大学を卒業するまで遺産を食いつぶしたり、奨学金を使うなりしなければいけなく余裕がなくなったからだ。

 

 そういえば、家政婦が家を出る前に玄関先で妙なことを言っていた。

 

「それでは秀樹様、私はこれで失礼します。あ、そうそう。天使を大切にしてあげなければダメですよ。」

 

「天使……何のこと?」

 

 家政婦は、やっぱりという顔をして、悲しげに微笑んだ。

 

「いえ、わからなければよいのです。秀樹様も最近お大変だったでしょうから。ただ、少しだけ周りを気にかけてあげてください」

 

 ああ、とだけ返事をして見送った。その背中は淋しげだったが、それが一体どれだけのことを気にかけてそうなったのかは分からなかった。

 

 まだ誰かほかにもいたような気がする。そう思い当たり、捨てようとしていたアルバムを広げてみると一人の少女が頻繁に写っていた。それには、「由美ちゃんと公園にて」と書かれていた。

 

 由美。確かにいたような気がする。だが、いつどこで会った? どうしてその少女のことを忘れていたのだろうか。

 

 きっと、ずっと仕事のことだけを考え、ただひたすらに働いた代償なのだろう。だが、それでかまわなかった。仕事以外の過去など今の秀樹にとって何の価値もない。母の願いと父の遺言を除いて。

 

 いくつか不明点は残るが、置物を取っておくことにした。取っていても意味がないのだが、これだけは捨ててはいけない気がした。あまりに神秘的なその置物との出会いは、非情で通っている秀樹の心を動かした。

 

 引越しの準備がほとんど片付き、あらかじめセットしていた携帯のアラームがなった。

 

 今日の壮行会の時に見合いの話を勧めさせてくれと秘書に言われていることを思い出した。これまで何度かそんな話が持ち上がったが、そんなことしなくても、いずれ実力で本社にいってやると息巻いて突っぱねて来た。吸収合併を機に、父を超えなければいけないという思いはそれ一点になっていた。

 

 念願の本社役員になって、これ以上意地になる必要はない。更なる飛躍を目指すならむしろ後ろ盾があった方がいい。

 

 今回は新任地の重要な取引先の社長令嬢だ。願ってもないチャンスである。ただ、何故四十過ぎた男とくっつけたがっているのか、ほかに条件がそろう有望な人間がいないのか、それとも彼女に問題があるのかという疑問点が残る。そろそろ秘書と運転手が迎えに来るだろうと考えていると、呼び鈴が鳴った。

 

 秘書の岩田は普段は神経質な顔をしているが、ずいぶん上機嫌な様子だ。今日ばかりは不機嫌な顔は厳禁だろうと気を使ってるのだろう。

 

 まだ秀樹が若い時分、役員の言いなりになってバブルのあおりを受けて父から授かった会社を倒産の危機に追い込んでしまったため、もはや社内の人間は信用できなくなった。そんな中、唯一信用できるのが秘書の岩田だ。

 

「社長、例の件がございますので、私もご同伴させていただきます」 玄関から出ると、直立不動の運転手が腰を曲げた。

 

 車内に入り、一服しようとタバコを出すと、秘書が火をつけながら言った。

 

「先方は先に到着しているはずですので、概要をまとめた書類の内容をご一読いただき、ご記憶下さい」

 

「分かってる。ずいぶん急な話だな」

 

「ずいぶん焦っているようです。二つ返事はなさらないほうがよろしいかもしれません。こちらです」

 

 受け取ろうと手をさしだした時、車窓越しに見覚えのある公園が目に入った。

 

 それは自室で見たアルバムにあった公園だった。信号待ちをして止まっている為、例のブランコが目に入った。よく見ると、女性がそのブランコに座り、何かを持って見ているようだった。

 

 秀樹はその光景に見覚えがあった。いつの日だっただろうか。そう、あれは確か小学校の時だ。

 

 由美は、いつも公園の中央にあるブランコに腰掛けて足で地面に絵を描きながら秀樹を待っていた。

 

ゆみちゃん。と声をかけると、決まって日ざしを浴びて元気になるひまわりのように笑顔を向けた。活発で一途な女の子は、いつも秀樹を向いていた。

 

 由美は公立小学校だが、家が近かったこと、親同士の仲が良かったことがきっかけで物心ついていたときから遊んでいた。

 

 二人が中学生になってからはさすがに公園には行かなくなったが、それでも由美はたまに秀樹の家に遊びに行っていた。

 

 由美と会わなくなったのはいつからだっただろうか。それだけがまるで記憶をくりぬいたように思い出せない。

 

「ずっとここで待ってるから」

 

 由美の声が聞こえたような気がした。

 

 

 

「社長、どうなさいましたか」

 

 岩田は差し出した格好のまま、秀樹が受け取るのを待っていた。そんな機械のように無駄のない動きは秀樹とそっくりで、神経質で時間にうるさい秘書は論理的で無感情な社長と相性がよかった。

 

 秀樹は相性だけでなく秘書としても優秀な岩田に一緒に来ないかと聞いたが、家族がいるから出来るだけ国内にいたいと断った。

 

「いや、なんでもない。そういえば、今回はずいぶんと色々と気にかけるんだな」

 

 岩田は、軽く目を見開き、悲しげな顔をしたが、すぐに真顔に戻り当然のように言った。

 

「はい、社長が向こうに行ったら私も別のところに行きたいので」

 

 秀樹は軽く唇をゆがめた。つまり、うまくまとまれば先方からいい条件にするよう秘書課に話を通してもらえるのだろう。家族の為に縛られるとはなんと不自由なのだろうか。

 

「そうか、だがそれなら何故二つ返事をしないほうが良いと言ったんだ」

 

「何も断ってくれとは申しておりません」

 

 つまり、こちらにとっても断りきれないと踏んでいるのだろう。だが、多少焦らさないとこちらの立場が弱くなる。計算高さは相変わらずだ。

 

「君がもっと早く秘書になってくれていれば、景気なんかに左右されなかったのにな」

 

 岩田は吸収合併の際、本社の指示で当てられた秘書だ。本社は有能な秘書をやったからきちんとしろとでも言いたかったのだろう。嘗められているというのが一番腹が立った。

 

「社長は優秀です。私は足手まといにならないように必死になって、社長を見て育ったようなものです」

 

 秀樹はそう謙遜する岩田の端正な横顔を盗み見た。この男の明晰さに何度空恐ろしいと感じたことか。

 

 書類の内容には、相手は日本人で長谷川香織といい、大手経営コンサルティングの一人娘。ご令嬢ならではのじゃじゃ馬だが、親の長谷川博は秀樹の経営者としての実力を求め、願わくば社の進歩に一石を投じて欲しいというのが本音のようだ。

 

「向こうはトラがトラの威を借る狐になってるな。うまくいけばおまけがついてきそうだ」

 

 食うか食われるか、まさに互いの技量によって戦況が変わるこの状況は、秀樹にとっては興奮と快感すら感じた。

 

「そういえば、お体のほうはいかがですか」

 

 岩田は衝突に秀樹に尋ねた。何のことかと思ったが、恐らく最近のせきの事だろう。だが、そんなことをいっている場合ではない。大丈夫だと言って話を打ち切った。

 

 

 

「社長、到着しました」

 

 運転手の一言を合図に車窓から外を見る。ひときわ高い都内のホテルが秀樹を出迎えた。いや、送り出すにふさわしいものを用意したと言うべきか。

 

 ロビーに入ると、連絡を受けた部下達が出迎え、会場内はすでにほとんどの面子がそろっていた。

 

 一斉に来場者の視線が集中する中、いち早く動いたのは見合い相手の親である長谷川博だった。

 

「主役の登場だね。はじめまして、長谷川博だ」

 

 そう言って名刺交換する様は、やはりうまく丸め込もうと言う魂胆が見え隠れしていた。頭を下げて様子盗み見、にやりと笑った秀樹に長谷川は気が付かなかった。

 

 今ニューヨークにいる娘の香織は会場にはいなかったが、契約が成立すれば良い。よほど手におえない相手でなければ問題ないだろう。

 

「栄転おめでとう。ついに本社勤務の夢がかなったわけだ」

 

 長谷川は、大きなものを抱え込むように手を振って笑った。

 

「夢、ですか。そうではありません。目標に到達しただけです」

 

 秀樹は素直に賛同する手が最良だと思いつつ、長谷川を測る為に軽く抗った。

 

「ほう、自信家だね。若いうちはそうでなくてはいけない」

 

 秀樹は違うと言いたくなって言葉を飲み込んだ。夢など幻想に過ぎない。そんなものを見ている間は、自分と夢の距離を見誤って行き過ぎるか届かないか、かなわない場合が多い。夢を見る、ではなく夢に魅入られているのだ。それは麻薬に等しい。

 

 たとえかなったとしても、現実に打ちひしがれることだろう。そして終着点にたどり着いたことにより怠慢が発生する。だからこそ目標という、次のステップを考え、かつ冷静に打ち立てられる思想が大切なのだ。

 

「私もまだまだです。縁談が成立した暁にはぜひご教授下さい」

 

 そう言うと、目の前の男を暗に小ばかにした気分になり自然と笑みが浮かんだ。自分の尺で相手の意見を汲み取るまでならまだしも、それを口に出して図らずとも相手に反発心を抱かせるなど性格的欠陥か浅はかな証拠だ。

 

 それを受けた長谷川は大いにうなずき、終始話しが盛り上がった。

 

 秀樹がようやく解放されたのを見届け、来場者はかわるがわる挨拶をしてやんや、やんやとまくし立てた。

 

 そうして式が進行していく様子を見、秀樹は不意に父の葬式のときのことを思い出した。

 

 

 

 秀樹は真っ白な棺の前で一人ぽつんと立っていた。

 

「秀ちゃん、困ったことがあったらおばちゃんたちに言うんだよ」

 

 父の妹であり、比較的近所に住んでいる典子は俯いて黙っていた秀樹の肩を抱いた。

 

 その後ろでは、父の仕事仲間とおぼしき人達がお辞儀を交し合って、親戚は小声で深刻そうな顔で話をしていた。そして 秀樹と目が合うとお愛想を交し合った。

 

「安らかなお眠りをお祈り申し上げます」

 

「ありがとうございます」

 

 その繰り返しだった。

 

 典子叔母さんは、葬儀が始まる前に口をすっぱくして言った。キリスト教式葬儀では悲しくても悲しいと言ってはいけないよ。死を霊魂の復活と永遠の安らぎに結びつくものと考えている宗教なんだからね。

 

 典子叔母さんも同類だろうと思った。ここにいる人間は皆形式と自分のことしか考えていないに違いない。葬儀に決まりがあることくらいは分かる。けど、安らぎを与えられた父を祝福しているとは到底思えなかった。遺産が手に入る親族と、社長の座を望んでいる役員達は内心ほくそ笑んでいたことがありありと分かった。

 

 秀樹は自分も社会に出ればそうならなくてはいけないのだと思うと辛かった。しかし、父の代を受け継がなくてはいけない以上、そうしなければいけなかった。選択肢はほかに存在しなかった。

 

 

 

 二時間にわたる壮行会は無事に終了し、再び送迎車の待機している玄関まで向かった。

 

 しかし秀樹は置物を見つけて以来、いくとどなく思い出す過去に苛立ちすら覚えていた。何故今ごろになって現状を悲観するような過去を思い出すのか。年をとって感傷的になったとでもいうのか。なにが哀れとなのだ。未来は希望に満ちている。それの何が問題か。

 

「社長、あらためてご栄転おめでとうございます。今後ますますのご活躍をお祈り申し上げます」

 

 そう言って岩田は最敬礼をし、送迎車が見えなくなるまでそのままの姿勢で見送った。

 

 秀樹は移動中この不安定な精神状態を解決させねばならないと思った。それは過去との決別。あの置物を破棄することはもちろん、かなうなら持ち主に返すなりしなければならない。過去の亡霊に取り付かれたような不快感は新任地で一点の蔭りが生じる。

 

 あれが由美と公園のブランコに関係していることは明白だ。何かわかるかもしれないし、何より今日公園にいた女が何か関係しているかもしれなかった。今までならばかばかしいと思っただろう。だが手がかりがほとんどなく忙しい今、常識的に探すのは困難だ。もし探すとしたら今日しかない。帰りがけにあの公園で止めるように運転手に言った。

 

 秀樹は流れる景色を見ながら、幼い頃の由美との思い出をはき捨てるように思い出した。決して声に出してはならない。それは己の心の内を明かし、最悪弱点をさらけ出すことになりかねないからだ。

 

 もしかしたら淡い恋心なのではないか。女は風のように新しい恋を見つければ忘れ、流れていくが男は記憶を地層のように蓄積すると聞いたことがある。もしそうであるなら問題だ。せめて何事もなくことが運ぶことを祈るしかない。

 

 

 

 そうこうしているうちに問題の公園が見えてきた。

 

 居た。行きにこの道を通って確認した時と同じように、まるでまったく動かなかったかのように女はそのままの姿でそこに座っていた。

 

 車を出、運転手にそこで待つように言って女の下に歩みだす。昔と同じように。

 

 女は手元から秀樹に目を移し、秀樹はその手元にある物を見た。

 

 それは紛れもない、昼に見つけたあのつがいの天使の片割れだった。それにも全体にヒビが入っていた。秀樹の持っていたものと同じくらいにボロボロで、大切そうにそれを持っていた。そのとき始めて由美と会わなくなった理由を思い出した。

 

 

 

 あれは父の葬儀の帰り、秀樹が部屋にこもっていた時のことだった。

 

「秀樹様、由美ちゃんがきてくださいましたよ」

 

 家政婦の声を聞き、まだ開いていない扉を振り返った。

 

「秀ちゃん」

 

 そう言いながら、ためらいがちに扉を開けた由美はそわそわしていた。

 

 由美は通夜には参加したが、学校があったので葬儀には来なかった。制服のままであることを考えると、恐らく時間を見計らってきたのだろうが、とても話をする気分ではなかった。

 

「悪いけど、今日は帰ってくれないか」

 

 由美は、そう言われることが分かっていたのか少し悲しげに微笑んだ。そうすることが自分の役目だといいたそうな目は、嬉しくもあったがそれ以上に秀樹の頼りなさを指摘されたようで悔しかった。

 

「今日は、受け取って欲しいものがあってきたの」

 

 そう言って、鞄の中から真っ白な片翼の天使の置物を取り出した。

 

「お父さんが亡くなって淋しくても、私がずっとそばにいるから。これはその証。対になってるのよ、ほら」

 

 由美はもう一つの左右対称の置物をかばんから取り出し、両の手の上で二つをあわせる。

 

「いらないよ、そんなもの」

 

 少し言いすぎたかもしれないと思ったときには、由美は不意をつかれて肩をびくつかせて俯いた。しかし、すぐに秀樹の目を見た。

 

「辛いなら、辛いって言っていいのよ。我慢する必要なんてないの」

 

 辛い? そりゃ父さんを失ったんだ、辛いに決まってる。けど、ただ運が悪かっただけ。遺産による裕福な暮らし、エリートに保証された輝かしい未来、すばらしいじゃないか。本当は疲れてる。でも、孤独で金のない不憫な子どもだっているんだ。そんな子とは違う。寂しくなんかない。寂しくなんかないんだ! そう心の中で叫んだときには、すでに秀樹の手はその置物に向かって振り下ろされていた。

 

 「痛っ……っ……」

 

 由美の手の上にあったはずの置物は、秀樹の手によって叩き落された。二人の天使は縺れあうようにして堕ちた。

 

 秀樹は由美の悲しみに歪んだ顔から目をそむけ、くそっ! と捨て台詞を吐き、部屋を飛び出した。

 

「まって、秀ちゃん」

 

 秀樹は一目散に外に出てさまよい歩いた。何の目的もなく町を歩くと夕日が目に染みた。

 

 秀樹は走り疲れてなんとなく歩いていると公園にたどり着いた。まるでずっと探しつづけた故郷にたどり着いたかのように、妙な望郷心に浸っていた。

 

 物心ついたときから由美と遊んだ場所。何度かいじめられていた由美を秀樹が助けたこともあった。気が付くと秀樹は公園のブランコに腰掛けて、夕日をじっと見ていた。

 

 すると、夕日の下に一点の影が出来た。正確には、由美の姿だった。

 

「あ……」

 

 ほぼ同時に声をあげた。おかしな光景だと秀樹は思った。小学校の頃からずっと由美を待たせていたところに秀樹が座り、由美は秀樹のもとに走ってくるのだから。

 

 結局自分は甘えているのだろうか。そんなはずは無い、そうあってはいけないんだ。そう自分に念を押した。

 

「やっと見つけた。ここにいたんだ」

 

 それは、安著と同情に満ちていた。しかし、信じることが出来なかった。きっと将来は玉の輿に乗ろうとしているのかもしれない。もう誰も信用できなかった。

 

 秀樹はきびすを返して今由美が入ってきた入り口と違う方向の出口に向かって走ろうとした。

 

 まってという声に後ろ髪を引かれ、一瞬立ち止まってしまった。

 

「明日、ここで待ってるから。小学校の頃みたいに、ずっとここで待ってるから。だからお願い、私を迎えに来て」

 

「さあな」

 

 秀樹はあいまいな返事をした。きつく目をつぶって、正直どうしたらいいか分からなくなって由美から逃げるように走っていった。

 

 結局秀樹はもうそこには行かなくなった。一人になって、これからずっと頑張っていくのに由美がいたら寄りかかってしまうかもしれない。そして裏切られたらどうなることか。それが怖かった。

 

 

 

 そうだ、思い出した。秀樹は心の中でそう呟き、それなら何故今もいるのだと思った。

 

 女はふと考え、驚愕の後、期待と不安のいり乱れた表情をした。間違いない。恐らくこの女もそう思っただろう。

 

「由美なのか、相澤由美なのか」

 

 秀樹がそう言うと、女は涙を流して何度もうなずいた。顔を手で覆って、それでもうなずきつづけた。

 

 由美と秀樹は同い年だ。まさかこの年までずっとここにいたわけではあるまい。

 

「一体今までどうしていたんだ」

 

「あの後、ずっと待ってたのに来てくれなくて、結局私はデザイン会社に入ったの。それで、自立したけど倒産しちゃって。ここ数日夕方から深夜までここにいるの」

 

「そうか。あの置物を直したのも由美なのか」

 

「ええ、あの家政婦さん……なんていったっけ」

 

「安藤さん」

 

「そう、その安藤さんに手伝ってもらって一つは家に置いてくれるって言ってくれたの」

 

 やはりそうだったのか。だが、とにかく返さなければいけない。そのためにここまで来たのだ。

 

「またあなたに逢えて良かったわ。会社、大変だったんでしょ。今は順調なの?」

 

「その話は車でしよう。とにかくあれは返す」

 

 瞬間、由美の顔は曇り、俯いた。覚悟していたのかもしれない。それ以上何も言わずに秀樹についていった。

 

 二人は秀樹の部屋に入った。

 

「あれ以来、何も変わらないのね。変わったのはすっきりしたことかしら?」

 

 無理しておどけているように見えたが、キャンキャン吼えられなくて秀樹は内心ほっとした。

 

「明日には必要なものは業者が持っていくからな。明後日のフライトまで、ベットと最低限のものしか残さない」

 

「引越し前に風邪治さないとね」

 

 秀樹はいちいちそういわれ、辟易していた。

 

「分かってる。問題ないといっているだろう」 

 

箱が置いてある部屋に案内し、あれだ。と、白い箱を指差した。

 

 秀樹は、一瞬ゆらりと動くと、糸が切れたマリオネットのように倒れて動かなくなった

 

「秀ちゃん、大丈夫?秀ちゃん!」

 

 

 

 秀樹が目を覚ましたときは、父と最後に言葉を交わした、あの白い空間が目に入った。

 

 また昔を思い出しているのかと思い、秀樹自身が病院のベットに寝そべっているのだと気が付くまでに数秒を費やした。体が重い。何かが乗っかってるように感じ、体を起こそうとすると秀樹の寝るベットの横に座ったままいつのまにか寝そべっていた由美が目を覚ました。

 

「あ、秀ちゃん、目を覚ましたのね」

 

 心底安心した感じで微笑む由美の顔は、心なしか淋しげだった。

 

「ニューヨーク行きはどうなった。俺は一体どうしたんだ。あれから何日たった?それと、その秀ちゃんというはやめてくれ」

 

 混乱しかける中、とにかく聞かなければいけない順番を並べて由美の回答を待った。すでに習慣化した無駄のない会話は傍目からは異常なほどに的確だった。

 

「ああ、ごめんなさい。落ち着いてって言いたいところだけど、しっかり優先順位が定まってるわね」

 

 半ば呆れ顔で説明した。秀樹の部屋に入ったときに、秀樹が倒れ病院に収容されたこと、あれから一日半ほど経ったこと、休養のためにしばらく出社は出来ないこと。

 

 秀樹は天井を見上げた。記念すべき栄転の日を先送りにしなければいけないことは何よりこたえた。

 

「せっかく栄転が決まったのに、なんて顔しないの。ゆっくり休みなさい」

 

 秀樹はまるで心を読まれた気がして由美の顔をまじまじと見た。

 

「いくらあれから三十年近くが経ったとしても、ずっと見てきたんだからそのくらい分かるわよ。完璧主義者で合理的、プライドが高く、命より面子を気にする人。経営者の鏡よねぇ」

 

 皮肉をこめたような台詞は、しかしまったく嫌味を感じさせなかった。

 

「しばらくって、どのくらいなんだ。いつになったら退院できる」

 

「検査しないとわからないそうよ」

 

 そう言った由美の表情は陰りがあった。

 

「正直なところどうなんだ」

 

 今度は由美が驚く番だった。

 

「俺も少しは覚えてる。嘘は嫌いだっただろう。単純バカは年をとっても治らないようだな」

 

「年寄りで悪かったわね。あなたも同い年でしょ。大体、単純バカは余計です」

 

 そうだったな。と言うと、お互いに顔を見合わせて笑った。ずいぶん久しぶりに笑った気がした。

 

「結局部下はあれから来てないんだろう。差し入れらしきものもないし。つまり、もう社にとっては用済みなわけだ」

 

 改めて口にすると、突然訪れた理不尽に唇を噛んだ。

 

「もう、社会復帰は出来ないのだろう」

 

 あたったところで仕方がない。わかってはいたが何とか言わなくては気がすまなかった。

 

「きっと治るから。自分を追い詰めないで……」

 

 嘘でも否定して欲しかった。しかし、その一言で絶望的なんだと秀樹は悟った。

 

 

 

 あれから数日。結局大した検査もせず、点滴をすることになった。倒れる前からせきを何度かしたが、ひどくなったことを考えるとそういう病気なんだろうと秀樹は思った。

 

 相変わらず由美は献身的な介護を続け、仕事は見つかったのかと言えば今は看させてくれと言う。ずっとその問答が続き、ついに秀樹も今まで言えなかった事を口にした。

 

「由美、俺はもう永くないのか」

 

 一瞬ビクッとしたが、とたんに落胆した。

 

「ねえ、何でそんなことを聞くの。」

 

 何の検査もなく、誰も見舞いにこないことを考えればもうなにをしても意味がないのではないかとずっと考えていた。きっとこのまま隠されつづけて、気が付いたら死んでるのではないかと気が気ではなかった。

 

「医療機器メーカーの元経営者だ、皮肉なものだな。だいたい、否定していないだろ」

 

「大丈夫だって言ってるじゃないのよ」

 

「その態度が否定してないんだよ!」

 

 十四のときに由美を捨て、秀樹への戒めは母と父との約束のみだった。結婚もせず、女も作らず、趣味も持たず、がむしゃらに働いた。そうすることで、孤独感を感じる暇も無く時が過ぎていった。

 

 酒は付き合いだけで、決して飲んでものまれることは無かった。もし酔った勢いで相手に弱みを見せたら、二日酔いで仕事に支障をきたしたら、依存症になったら……そう考えると過ぎた酒は厳禁だった。タバコは吸ったが、そうでもしなければ落ち着かなかった。

 

 倒産の危機に瀕し、一度だけ女遊びをしたことがあった。初めて酒を浴びるように飲んで、それでも心のどこかで歯止めが利いて酔えなかったから、行き連れの女を抱いた。目の前の女はマネキンのようだった。体の求めるままに体を動かし、ことがすんだら後は言いようの無い孤独感しかなかった。

 

「仕事以外何もない人生だった」

 

 気が付くと、秀樹は今までの悲しみをはじめて口に出してしまい、頬が歪むほど歯を食いしばった

 

「淋しかったら、私を頼っていいのよ。一人で抱え込まないで」

 

 由美はそれがさも当然のように言った。

 

 今までずっと頑張った。父を目指し、吸収合併を機に夢中で上を目指した。その結果がこれだ。まるでイカロスのようだと思うと、母の死以来三十二年の月日が重くのしかかった。

 

 

 

 秀樹にとって一番悔しいのは最後の最後で女に頼ること、頼ってると思われることだった。どうしても甘えることが出来なかった。そして、自分はもう永くないことを状況ではなく体で感じ始めた。

 

 「どうせお前も金目当てなんだろう。だからうまいこといいよって借金を返そうと思ってるんだ。いくら欲しい?出してやるからさっさと消えてくれ」

 

 多分、いいようのない怒りをぶつけたかった。だから言ってしまったのだ。しかし、何の見返りもないというのは信じられなかった。

 

 由美はみるみる顔を赤らめた。

 

「馬鹿にしないで!」

 

 由美は秀樹の頬を平手で打った。

 

「どうして分かってくれないの、人を信じようとしないの」

 

 分かるはずないだろう。人は皆保身を第一にして、目的の為に動くのだ。

 

「秀樹は、お父さんを失って片方の翼を失ったのよ。そして、私が自分でむしっって手渡した片方の翼の羽を使ってろうの翼を作って大空を羽ばたいた」

 

 そうだ、あの時由美が差し出した置物は由美自身の片方の翼だった。だから俺は、それを利用して一人で生きることを誓った。その代償としてろうの翼をイカロスの父、ダイダロスから授かった。俺は由美を踏み台にしたんだ。そう考えるとますます傷がえぐれていった。

 

「でも、秀樹は自分の身を省みずに即席で作ったロウの翼であることを忘れ、太陽を目指して翼が耐えきれずに落ちてしまった。けど、私はまだ生きてる。まだ飛べるわ。自由に飛べるのよ」

 

 止めてくれ。俺はもう堕ちたんだ。関わらないでくれ。ただ、そう願いつづけるだけしか出来ず、やっとのことで声を絞りだした。

 

「由美の翼を奪ってしまったのは謝るから、もう許してくれ」

 

 由美は疲れたていたが、やさしい顔をした。

 

「いいのよ、そんなこと。私の意思なんだから。これ以上自分を偽らないで。どうしてもいらないなら、私はもう死ぬから。邪魔なら、何も求められずにただ看取るのは辛いから死にます。でもお願い、一度でいいから笑って。残りの人生は幸せに生きるように頑張るって言って」

 

 由美は、秀樹の手を握ろうとして手を伸ばした。あながろうとしたが、体が凍りついたように動かなかった。

 

 暖かい手に包まれる。由美は涙を流していた。その雫は秀樹の心に落ち、波紋が広がっていく……

 

 秀樹は、気が付くと自分でも涙を流していた。由美は天使だ。片方の翼を失って落ちた俺の元に舞い降りた天使なんだ。

 

「ごめんなさい、嫌なことを思い出させてしまって」

 

 落ち着いてから、由美は手を握ったまま言った。

 

「いいんだ、由美だけでもあの時のままなら」

 

 由美は恐ろしいものを見たように凍りついた。唇を震わせ、出かかっている言葉を必死に飲み込んでいた。

 

「言いたいことがあるなら言ってくれ。それで楽になるなら」

 

「でも、言ったらきっとあなたは傷つくわ」

 

「大丈夫だ。受け止めさせてくれ」

 

「……なにがあっても、変わらずにいてくれるって約束してくれる?」

 

「ああ、約束する」

 

 由美はうなずくと、握った手にわずかに力を入れて語った。

 

「秀樹が去っていった日のこと覚えてる?」

 

「ああ、あのプレゼントを叩き落として、家を飛び出て、ブランコのところに座っていたら由美が来た。だが俺は、由美の前から姿を消した」

 

「そのとき、ずっとここで待ってるから私を迎えに来てって言ったわよね」

 

 数日前、由美と再会したときに一言一言をありありと思い出した。秀樹は黙ってうなずいた。

 

「あの日以来、部活に行かず公園のブランコでずっと秀樹を待っていた。でも、高校の時にどこの誰かも分からないオヤジに襲われた」

 

 秀樹は硬く目をつぶり、肩を落として頭を抱えてうなだれた。悔やんでも悔やみきれなかった。

 

「最初は逃げたけど、捕まってもうだめだと思った時に秀ちゃんが助けてくれるかもしれないと思った。だから、ぎゅっと目をつぶって恐怖に耐えた」

 

 もういい。もうやめてくれ。秀樹は危うくそう言いかけて、言葉を飲んだ。由美の悲しみを受け止めなければいけない。今度は俺の番だ。そう言い聞かせた。

 

 由美は唇を震わせ、のどをつまらせながらやっと声に出した。

 

「けど、助けにきてくれなかった。めちゃくちゃに壊されて、ぼろ布のように捨てられた。今でもあの心も体も引き裂いた荒々しさを覚えてる。ものすごく怖くて、一人残されてずっと泣いてた。そのときはっきり感じたの。もう秀ちゃんは私の知っている世界にはいないんだって。もう見てくれていないんだって。もう、会いに来てくれないんだって」

 

 由美の声は次第に涙声になり、かろうじて聞き取れた。そのとき俺はどうしていただろうか。必死にライバルを蹴落とし、上だけを見ていたような気がする。秀樹にとってはそれが一番悔しかった。

 

「それで、結局そこには行かなくなったけど社会に出て、路頭に迷ってまたあそこにたどり着いた。いっそ徹底的に壊して欲しいと思って、ずっとあそこに居るようになった」

 

「ごめん、ごめん……」

 

 秀樹はそれだけを繰り返して由美の細くて小さい肩を抱いた。

 

 二十八年の月日を経て、あの天使の置物のように満身創痍になって二人はついに巡り逢った。

 

 

 

 事故から二週間。秀樹は延命処置を施すかどうかを由美の口から問われた。

 

「わざわざ聞いてきたって事は、しなくてもいいってことだよな」

 

「そう言うと思ったから、聞いたの」

 

 由美はため息と共に言った。

 

「もう病名を聞いてもいいか? 知らないまま死ぬのはさすがに嫌だからな」

 

 由美は俯き、震える声で言った。

 

「肺ガンよ。運び込まれたときは末期で、もって後三、四ヶ月だって……」

 

「そうか」

 

「そうかって、それだけ? ひどいじゃない。何でこんなことになるのよ」

 

「いいんだ。お前を悲しませた罰さ」

 

「死ぬことが償いになるはずないじゃない!私はただ、あなたといっしょにいたかっただけなのに」

 

 由美は秀樹を睨みつけ、秀樹の寝ているベットにうずくまって声を殺して泣いた。

 

「飛べなくなって良かったのかもしれないな」

 

 由美は顔を上げ、一瞬戸惑ったが泣き顔とも笑いともとれない顔をした。

 

「その結果がこれなの。この状況でしか得られなかったの?」

 

 たぶんそうだろう。秀樹は職を失っただけでも由美を受け入れようとはしなったかもしれない。いや、受け入れたとしてもいずれ悲劇が訪れるのではないかと脅え続けることになっただろう。先がないと分かったからこそ父と母が秀樹の心に縛り付けた鎖は意味を失い、素直になれた。

 

 秀樹は答えの代わりに接吻をした。言いたい事はたくさんあったが、素直な気持ちを伝えるのに必ずしも言葉が最適とは限らない。初めて由美と交わす接吻は、お互い不慣れで硬く不器用で小鳥のようだった。二人は長い時間抱きしめあった。

 

 こんなに近くにいるのに、お互いの心はどこかすれ違ってしまう。父が病床に伏していた時に言っていたことは、今ならわかる。だが、全てが正しいとは思えない。個が個でなくなった時、同になる。それはつがいではなく融合だ。二人は別々だからこそお互いが自分以上に大切で、愛することが出来るのだろう。

 

「由美、実は数日前からどうやって渡そうかと悩んでいたものがあるんだ」

 

 そう言って、秀樹はベットの端の布団の間に隠しておいた箱を取り出した。それには、天使の翼を模した指輪が入っていた。それは左と右で一組の翼になる特注の指輪だった。

 

「余命はあまりないが、結婚してくれないか」

 

 由美は秀樹と指輪を交互に見て、手を口に当ててまた泣いた。

 

「はい、喜んで」

 

 秀樹は微笑み、由美の頭を髪を梳くように撫でた。

 

 再会してすぐ結婚というのもおかしな話だが、戸籍上の、実際の形としての絆と共同生活がしたかった。秀樹は、それだけが由美にしてやれる最後のことだと思った。

 

 二つの指輪は太陽に照らされていつまでも輝きつづけた。

 

 

 

 

 

後書き

これが最初の創作小説なのですがいかがだでしたか? 陳腐すぎ? 申し訳ありません……

 

 別に狙ったわけではないのですよ。目的、というより小説を通したメッセージ的なものを決め、その次にキャラ設定をして、絶対必要な最終結果を二人が結婚するということにし、後はつらつらと書いたらこうなってしまいました。頭悪いのでこれ以上いい結果になりませんでした。

 

 二人を幸せにしようとしたものの、納得いかない読者の方もいらっしゃるかもしれませんが、私はこれが幸せの形であると信じています。信じてるってなんだよとか思われそうですが、最後の一文に作者として、その想いの全てを託しました。それは死を前にした父の願いを聞き入れたときに差し込んでいたものであり、一度はそれに焼かれたものが、その事件をきっかけに二人は永遠に輝きつづけるのです。それが、二人の間に起こった奇跡であり、現実の範囲内でかなえた願いだったのです。

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